「NG指導」⇒「その根拠」⇒「改善策」の3ステップで、子ども達にとって正しいことが行われる学校現場を創りだす。
小学校教師である著者は、20代で発達障害の子と出会ったのをきっかけに自分の指導を根本的に見直す必要に迫られ、多くのドクター・専門家と共同研究を進め、医学的・脳科学的な裏付けをもとにした指導を行ってきた。現在では、日本の特別支援教育を牽引する若手リーダーである。
■「当たり前」を疑う
著者は次のようなエピソードから、本書を始めている。
気に入らないことがあると教室を飛び出し、叫び声を出していた子がいた。学校のすすめで医療機関を受診し、ASDとAD/HDの診断がおりた。そして、自分のペースで学習できるようにと、特別支援学級へ転籍することになった。
担任に、どんな時にその子が飛び出すのかを聞いてみたところ、算数の時間が多いという。
算数が苦手なのかと思いきや、その子は平均よりもよくできるのだという。
さらに、詳しく聞いてみると、次のことが分かった。
「授業の最初の段階で、うまくいかないことが多い。そして、イライラしたり、突っ伏したりしてしまう。そのことを注意すると、怒って飛び出してしまう」
ここでいう授業の最初の段階とは、何か? そう思って聞いてみると次の答えが返ってきた。
「めあてを書くのに時間がかかったり、間違って何度も直したりすると、イライラしてくる」
つまり、算数の学習内容ではなく、「めあてを書く」ことで、つまずいていたことが分かった。その子のノートを見ると、消しゴムで何度も何度も消して、真っ黒によごれてしまっためあての文字が目に飛び込んできた。著者はそのノートを見て、「この子は、相当大変だったのだろうという思いとともに、ある疑問もわいてきた」と書く。
①算数の時間の初めに、三行も四行もめあてを書くことが、必要なのだろうか。
②2年生で、横書きで文章を書かせることは必要なのだろうか(国語で横書きの書き方の練習を充分に行っていないにもかかわらず)
この状況を見て、著者は、特別支援学級での算数指導の方針が次のように決める。
「授業のはじめに「めあて」を書かせることをやめて、いきなり教科書の学習内容を始める」
このエピソードは、「まえがき」で紹介されているものだ。
さて、著者のこの指導により、3年生でその子はどうなったか?
①算数のテストは、年間を通して、ほぼ100点。
②算数の時間にイライラすることはほとんどなくなった。
③イライラして教室を飛び出すことは一度もなかった。
④算数が楽しくなり、大好きになった。
著者は言う。
「難しいことは何もしていない。一番大きなことは、長々としためあてを書くことをやめたことである。この子は、通常学級であっても、やり方を変えれば学習に取り組めたはずである」
子どもを学習に集中させるには、脳内にドーパミンの分泌が必要なことが分かっている。そしてドーパミンの分泌には、「動かすこと」「ワクワクすること、楽しいこと」「様々な活動」が効果的であり、授業の最初は「活動から入る」ことが大事なのだ、と。
しかし、授業の初めに「めあてを書く」ことを強要する教育委員会や管理職が後をたたない。しかも文科省が示しているのは、あくまで「めあてを示す」ことであって、「めあてを書かせること」ではない。また、学力テストの調査から「めあてと学力との関係」について述べる人もいるが、それは因果関係ではなく相関関係にとどまる。つまり、「明確な根拠がないことが強要されている」のである。
教室を飛び出すほど苦しんでいた子が、やり方を変えるだけで算数が大好きになった。
「悪いのは、本当に子どもなのだろうか?」と著者は問い、こう言うのだ。
「脳科学や研究の成果によって、今まで学校のなかで当たり前のように行われてきたことが、実は効果的でないということが、次々と明らかになってきた。本書では、それらをできるだけ具体的な形で集め、編集した。最先端の研究、何年もかけて実証され確立された方法、教室での事実。それらをまとめることは、教室で苦しんでいる子ども達を救うことになる。また、その子達をなんとかしたいと本気で思っている教師や保護者をも救うことになるだろう」と。
■「子供の事実」に基づき、論争も辞さない覚悟で
当たり前を疑うというのは、実は容易なことではない。
著者が触れている次のエピソードがそのことを教えてくれる。
「二〇代半ばの頃、市内のほぼ全員が集まる研修会に参加した。教科別に分かれて、それぞれの部会で優れた実践が発表された。私は、算数部会に参加することにした。部会といっても市全体が集まる研修会なので、大きな会場には、数百人の教師がいた。
発表は、算数を専門に研究しているベテランの教師が行った。内容は、「平均」の学習。子ども達の意欲を高めるというテーマだったと思う。まず、全員をグランドに集めて、五〇メートル走の記録を計らせていた。その上で、クラスの平均を導き出すという内容だった。
子どもの必要感が重要ということで、どうやったらクラスの平均が求められるかということも子ども達に話し合わせたのだという。当然、全体の指導時間は、教科書の配当時間を大幅に超えていた。
私には、これの何がよいのかさっぱり分からなかったが、会場の教師の反応は概ね好評だった。最後に、発表者が次のようにまとめた。
『子ども達は、他の単元に比べて非常に意欲的に学習に取り組みました。また、学習の定着度も普段に比べて高かったと聞いています』
私の頭の中には、いくつもの疑問がふくらんだ。そこで、質疑応答で発表することにした。
『先生は、他の単元に比べて、子ども達は意欲的に学習に取り組んだと言われました。しかし、意欲的に取り組んだのは、算数の内容にでしょうか。体育の内容にでしょうか?
また、学習の定着度も普段よりも高かったと話されました。具体的には、市販テストでどのくらいの平均点だったのでしょうか。また、普段の平均点はどのくらいなのでしょうか。そのような具体的な数値で示していただきたいです。さらに、教科書で示されている配当単元を大幅に超えています。定着度が高かったのは、学習内容が良かったからなのか、学習時間が増えたからなのでしょうか』
今思えば、二〇代半ばの教師が、このような発言をするというのは我ながら汗が出そうになる。しかも、算数の専門家が数百人集まった会場で、算数の素人の私が発言したのだから。ただ、発言の内容は、今でも真っ当なものだと思う。昨今、教育界でも重要視されるようになってきたエビデンスを重視する考え方と近い。しかし、当時は、そのような考えはほとんど受け入れられなかった。
発表者の答えをさえぎるように、フロアの大御所と思われる教師から私に次のような発言があった。
『先生はまだ若いので経験も少ないのでしょうが、私たちはどのような子どもを育てたいのかということを忘れてはいけません。よく、卒業式の呼びかけにある「苦しかった計算練習」といったようなことを算数で経験させたいのか。それとも算数の楽しさに触れる子ども達を育てたいのか。そのことを忘れてはいけません』
会場からは大きな拍手が起こった。私はすぐに立ってこう答えた。
『先生は今、苦しかった計算練習と言われました。私には、その意味がよく分かりません。私は現在、計算スキルという教材を使っていますが、授業の終わりに「計算スキルをやりますよ」というと、「やった!」と歓声が上がります。少なくともうちのクラスの子ども達は計算が楽しいと言っています。ですから、先生のやり方の問題ではないのでしょうか』
そう言うと、その教師は何やら怒鳴り声のような文句を言っていたのを覚えている。内容に怒っていたのではない。若い私が正面切って論争したことに対して、生意気だと怒ったのである」
「子どもの事実」があり、理論的に優れていても、声の大きい人の意見が通ってしまう。いつまでたっても何も変わらない。「これではだめだ」とこの時、強く思ったと著者は言う。そして、こうした状況を変えるために確固たる証拠となるものとは何か。そのように考え始めるようになったのだという。
なぜ、この指導法がいいのか。なぜ、この方法ではだめなのか。今までやってきたからといって、よくないものは変えなければならない。そしてその取り組みは、学校全体を巻き込むものになることを覚悟する必要がある──。
学級経営から主要教科、音楽、図工、体育、家庭科、教室環境づくり、給食・行事指導まで、いま、真に求められている学校の仕組み・指導法を問い直し、教室で苦しんでいる子ども達を救う、画期的で挑戦的、かつ、大胆で繊細な数々のスキルを提唱する一冊。